「なぜ泣いているのか」  06.04.16
                  ヨハネ20:1〜18

 「なぜ泣いているのか。もう泣かなくてもよい。」
 主イエスは、イースターにこのように語りかけてくださいます。
 マリアたちは、日曜日の朝早く、十字架にかけられて死んだ
主イエスが納められた墓に行きました。ところが、墓に主の体は
ありませんでした。マリアは泣きます。
 深く激しい悲しみが、マリアを包みこんでいました。マリアは、
主イエスの体を誰かが持ち去ったと思いました。墓には、遺体を
包む亜麻布がおいてありました。亜麻布は遺体を包む必要が
なくなったということですが、マリヤはそれに気付きませんでした。
 その時、彼女の後ろに、復活された主イエスがおられました。
 しかし、マリアはその姿を見ても、それが主だとは気づきません
でした。深い悲しみは、人の目を見えなくしてしまいます。
 そのような経験は、私たちにもおこります。特に「死」は、私たち
人間を泣くしかできないところに追いやる、大きな力を持っています。
 悲しみに包み込まれているマリアに、主イエスは「なぜ泣いて
いるのか」と言われます。この言葉には「もう泣く必要はない」との
思いが込められています。
 なぜなら、そこに主イエスがおられるからです。
 主イエスは、復活されました。そして、死による別れをくつがえして、
マリアの側におられます。
 人に深い悲しみをもたらす「死」は、主イエスによって蹴散らされて
しまいました。それが、イースターに起こりました。
 マリアは、主がおられることに気付くのに時間がかかりました。
 しかし、気付かないマリアに呼びかける主がおられました。

 「死は最強のものではない。私が死に勝利した。私がここにいる。」
悲しみに沈むしかできない者の傍らで、主は語りかけてくださいます。


 マリアは、この後も泣くことがあったでしょう。
 しかし、「泣かなくてもよい」と語ってくださる主イエスを知っています。
 その主に、慰められ、支えられ、力を与えられながら生きました。
 私たちも同じです。